天風先生の本には、いつものべらんめえ口調でわかりやすく説いた「十牛の図」の解説が載っているのですが、
久しぶりにそれを読んでみて、「ああ。私もここまで来たんだなあ〜」と感慨深い気持ちになっています。
「十牛の図」とは、ウィキペディアによると・・・(牛と人の絵もあります)
十牛図(じゅうぎゅうず)は、禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもの。十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)ともいう。中国宋代の禅僧、廓庵(かくあん)によるものが有名。
以下の十枚の図からなる。ここで牛は人の心の象徴とされる。またあるいは、牛を悟り、童子を修行者と見立てる。
- 尋牛(じんぎゅう) – 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
- 見跡(けんせき) – 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
- 見牛(けんぎゅう) – 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
- 得牛(とくぎゅう) – 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
- 牧牛(ぼくぎゅう) – 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
- 騎牛帰家(きぎゅうきか) – 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
- 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) – 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
- 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) – すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
- 返本還源(へんぽんげんげん) – 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
- 入鄽垂手(にってんすいしゅ) – まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す
と書かれています。
1年前の私は、まさにICFのMCC(マスターコーチ)を目指す事に決めたばかり。1.の尋牛でした。
受験資格をなんとか得たものの、MCCの試験に関しては謎に包まれていて、どこからスタートしたらよいのかわかりません。
でも、いろいろ調べるうちに、3500人の認定コーチの頂点に立つICFのMCCは約20人いることを知りました。
2.の見跡。
そして、前からセミナーに参加したりしてパワーをもらっていた谷口コーチが最近合格したMCCの一人だと知って、コーチを依頼。
ところが、「ボク、簡単に受かっちゃったから・・・どうやって勉強したんですかって聞かれても、困るなあ」
と、本当に困っているようなのです。
急遽、同じくMCCの資格を持つ、厳しいけど、愛のあるFBで有名な森川コーチにティ-チングを含むコーチングを依頼。
そして、谷&森コーチの強力なダブルセッションが始まり、3.の見牛に入りました。
なるほど、そうだったのか・・・
まったくわからなかったMCCのコーチングを実際に自分が体験してみて、目からうろこの連続です。
気づき→実践→コーチからのFB→気づき→実践→コーチからのFB ・・・・・
まさに、スパイラル式でじわじわと謎が解けていきながら、成長していく。
やがて、MCCっぽい物の見方、考え方、セッションも、少しずつ出来るようになってきました・・・
その過程は、苦しいけれど、気持ちいい〜!
でも、ちょっと落ち込むと、コーチは優しい声で、「試験を受けるのやめてもいいんだよ」とニヤリ。
「今回こそは、うまくいったと思うけど・・・・」と言うと、「思うって何?なんで、うまくいったと言いきれないの?」とか、
「もっと、出来る筈だよね。だって、青木さん、今までだってやってきた人でしょ」とニヤリ。
ああ、4.の得牛の世界は厳しかった。
でも、試験が終わってみて、わかりました。
自分が5.の牧牛のレベルには、至っていないこと。
終わった途端、魔法が溶けてしまって、今までの自分のスタイルに戻ってしまいました。
要するに、まだ、本物にはなっていなかったんだな。
でも、頑張ってきたからこそ、次に目指すのは、牧牛だってこともわかった。
牧牛から先の世界は、まず、牧牛を手に入れてからめざそう。
今の自分は得牛だってことを知り、この現実の日々をしっかり生きようと思いました。
そこで、決めたこと。
今まで苦労して身につけてきたコーチングのテクニックを一旦手放す。
コーチングの武器なしに、青木理恵として一人の人間としてクライアントに素手で向かう。
そうすれば、クライアントの話に今までの10倍耳を傾けることができる。
既に身についているスキルは、意識しなくでも自然にできているはず。
それを信じて、原点に戻ります。